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中井久夫「戦争と平和 ある観察」を読んで欲しい

保坂和志経由で知って、ちょこちょこと読んでいる中井久夫さんの本。

中井久夫さんは1934年生まれの精神科医。博識で文学に造詣が深く、ギリシャ詩を翻訳したり、エッセイを書いたりもしている。

精神科の分野について書いた本でも、特定の範囲に留まらない広がりがあり、
信じられないぐらいの知識量と、あと、どんな存在に対しても優しい視線が向けられていることが文章から伝わってきて、
時には専門用語や固有名詞の洪水にくじけそうになりながらも読んでいる。何言ってんだか分からないところも自分には多いのだが、読んでいると不思議と高揚して前向きな気持ちになる。

「戦争と平和 ある観察」は、2015年8月に人文書院から出た本で、中井先生が戦争について書いた文章や、震災を通じて考えたこと、
加藤陽子、島田誠との対談なんかも入ったもの。表題となっている「戦争と平和 ある観察」という文章は、2005年に甲南大学の求めに応じて書いた文章が元になったものだという。70ページほどの文章で、12章に分かれているが、特に第1章の「はじめに」から第5章までがすごい。戦争というものがどういう過程を経て始まりに追い込まれていくかを、歴史の繰り返しを踏まえて書いているのだが、あまりに今の状況に近いように感じて、まるで予言を聞いているようなのだ。自分の周りの人にどうしてもそこだけは読んで欲しくて、写経の気持ちでここに書き写したい。怒られたら消す。


「戦争と平和 ある観察」

1.はじめに

 人類がまだ埋葬していないものの代表は戦争である。その亡霊は白昼横行しているように見える。
 
 精神医学と犯罪学は個々の戦争犯罪人だけでなく戦争と戦争犯罪をも研究の対象にするべきであるとエランベルジェ先生は書き残された。人類はなぜ戦争するのか、なぜ平和は永続しないのか。個人はどうして戦争に賛成し参加してしまうのか。残酷な戦闘行為を遂行できるのか。どうして戦争反対は難しく、毎度敗北感を以て終わることが多いのか。これらには、ある程度確実な答えのための能力も時間も私にはない。ただ、国民学校六年生で太平洋戦争の敗戦を迎えた私には、戦争の現実の切れ端を知る者として未熟な考えを「観察」と題して提出せずにはおれない気持ちがある。

 戦争を知る者が引退するか世を去った時に次の戦争が始まる例が少なくない。

1941年に太平洋戦争が始まった時、36年前の日露戦争の現実を知る者は連合艦隊司令長官・山本五十六独りであって、首相の東条英機は日露開戦の時士官学校在学中であった。

 第1次世界大戦はプロシャ・フランス戦争の43年後に起こっている。大量の死者を出して帝国主義ヨーロッパの自殺となったこの戦争は、主に植民地戦争の経験しかない英仏の将軍たちとフランスに対する戦勝を模範として勉強したドイツの将軍たちとの間に起こった。
 
 今、戦争をわずかでも知る世代は死滅するか現役から引退しつつある。

2.戦争と平和は非対称的である―まず戦争についての観察

 戦争と平和というが、両社は決して対照的概念ではない。前者は進行してゆく「過程」であり、平和はゆらぎを持つが「状態」である。一般に「過程」は理解しやすく、ヴィヴィッドな、あるいは論理的な語りになる。これに対して「状態」は多面的で、名づけがたく、語りにくく、つかみどころがない。この非対称性を具体的に述べてみよう。

 まず、戦争である。

 戦争は有限期間の「過程」である。始まりがあり終わりがある。多くの問題は単純化して勝敗にいかに寄与するかという一点に収斂してゆく。戦争は語りやすく、新聞の紙面一つでも作りやすい。戦争の語りは叙事詩的になりうる。

 指導者の名が頻繁に登場し、一般にその発言が強調され、性格と力量が美化される。それは宣伝だけではなく、戦争が始まってしまったからには指導者が優秀であってもらわねば民衆はたまらない。民衆の指導者美化を求める眼差しを指導者は浴びてカリスマ性を帯びる。軍服などの制服は、場の雰囲気と相まって平凡な老人にも一見の崇高さを与える。民衆には自己と指導層との同一視が急速に行われる。単純明快な集団的統一感が優勢となり、選択肢のない社会を作る。軍服は、青年にはまた格別のいさぎよさ、ひきしまった感じ、澄んだ眼差しを与える。戦争を繰り返すうちに、人類は戦闘者の服装、挙動、行為などの美学を洗練させてきたのであろう。それは成人だけでなく、特に男子青少年を誘惑することに力を注いできた。中国との戦争が近づくと幼少年向きの雑誌、マンガ、物語がまっさきに軍国化した。

 一方、戦争における指導層の責任は単純化される。失敗が目にみえるものであっても、思いのほか責任を問われず、むしろ合理化される。その一方で、指導層が要求する苦痛、欠乏、不平等その他は戦時下の民衆が受容し忍耐するべきものとしての倫理性を帯びてくる。それは災害時の行動倫理に似ていて、たしかに心に訴えるものがある。前線の兵士はもちろん、極端には戦死者を引き合いに出して、震災の時にも見られた「生存者罪悪感」という正常心理に訴え、戦争遂行の不首尾はみずからの努力が足りないゆえだと各人に責任を感じるようにさせる。

 民衆だけではない。兵士が戦列から離れることに非常な罪悪感を覚えさせるのには「生存者罪悪感」に訴えるところが非常に大きい。親友が、あるいは信頼していた上官が先に逝ったという思いである。「特別攻撃隊員は一歩前へ」の号令が背中を押す一因子には、この罪悪感がある。

 人々は、したがって、表面的には道徳的になり、社会は平和時に比べて改善されたかにみえることすらある。かつての平和時の生活が、自己中心、弛緩、空虚、目的喪失、私利私欲むきだし、犯罪と不道徳の横行する時代として低くみられるようにさえなる。

 実際には、多くの問題は都合よく棚上げされ、戦後に先送りされるか隠蔽されて、未来は明るい幻想の色を帯びる。兵士という膨大な雇用が生まれて失業問題が解消し、兵器という高価な大量消費物質のために無際限の需要が生まれて経済界が活性化する。

 もちろん、雇用と好況は問題先送りの結果である。日露戦争は外債で戦い、その支払いのために鉄道、塩、タバコを国の専売として抵当においた。太平洋戦争は、国民の貯蓄を悪性インフレによってチャラにすることで帳尻を合わせたが、それは戦時中には誰にも思い寄らないことであった。戦勝による多額の賠償の幻想が宙を漂っていた。

 もちろん、戦争はいくら強調してもしたりないほど酸鼻なものである。しかし、酸鼻な局面をほうとうに知るのは死者だけである。「死人に口なし」という単純な事実ほど戦争を可能にしているものはない。戦争そのものは死そのものほど語りえないものかもしれない。それに、「総力戦」下にあっても、酸鼻な局面がすべてに広がり万人の眼にさらされるのはほんとうの敗戦直前である。戦時下にも、戦闘地域以外には「猶予としての平和」がある。実際、B29の爆撃が始まる1944年までの内地は欠乏と不自由が徐々に募っていっただけであった。1945年春にも、桜の花を飾り、菊水の幟を翻して歓呼の声の中を特殊潜航艇「回天」を搭載した潜水艦が出撃して行った。修羅場が待っているのは見送る側ではむろんなかった。
 2004年のイラクでは双方の奇襲攻撃が続いているいっぽう、証券取引所が開かれているそうである。

 どうも、戦争の美徳は平和時の諸権利が制限される結果であって、実際にはその陰に非常な不公平を生むらしい。日中戦争から太平洋戦争を戦ったのは、少年兵を除けばほぼ明治30年代から大正の15年間に生きた25年間に生まれて「チョコレートの味を初めて味わった」人たちあるが、この気の毒な世代にも「一族の中で兵隊に行った者はいません」という人がけっこういる。戦争中および占領期間にも「食糧難を経験していません」という人が農家以外にもいる。軍人でも少佐か中佐以上は特攻隊員を志願させ壇上で激励する側にまわるものらしい(例外はむろんある)。戦時中の社会は、軍民官を問わず、ずいぶん差異が大きい社会であった。裏面では、徴兵回避の術策がうごめき、暴力が公認され、暴利が横行し、放埓な不道徳が黙認され、黒社会も公的な任務を帯び、大小の被害は黙殺される。

 おそらく、戦争とはエントロピーの大きい(無秩序性の高い)状態であって、これがもっとも一般論的な戦争と平和の非対称性なのであろう。その証拠に、一般に戦争には自己収束性がない。戦争は自分の後始末ができないのである。いや、むしろ、文化人類学で報告されているポトラッチのごとく、嬉々として有形無形の貴重な財を火中に投じるのである。

3.状態としての平和

 戦争が「過程」であるのに対して平和は無際限に続く有為転変の「状態」である。だから、非常にわかりにくく、目にみえにくく、心に訴える力が弱い。

 戦争が大幅にエントロピーの増大を許すのに対して、平和は絶えずエネルギーを費やして負のエントロピー(ネゲントロピー)を注入して秩序を立て直しつづけなければならない。一般にエントロピーの低い状態、たとえば生体の秩序性はそのようにして維持されるものである。エントロピーの増大は死に至る過程である。秩序を維持するほうが格段に難しいのは、部屋を散らかすのと片付けるのとの違いである。戦争では散らかす「過程」が優勢である。戦争は男性の中の散らかす「子ども性」が水を得た魚のようになる。

 ここで、エントロピーの低い状態を「秩序」と言ったが、硬直的な格子のような秩序ではない。それなら全体主義国家で、、これはしなやかでゆらぎのある秩序(生命がその代表である)よりも実はエントロピー(無秩序性)が高いはずである。快適さをめざして整えられた部屋と脅迫的に整理された部屋の違いといおうか。全体主義的な秩序は、硬直的であって、自己維持性が弱く、しばしばそれ自体が戦争準備状態である。さもなくば裏にほしいままの腐敗が生まれている。

 負のエントロピーを生み出すためには高いエントロピー(無秩序)をどこかに排出しなければならない。部屋の整理でいえば、片付けられたものの始末であり、現在の問題でいえば整然とした都市とその大量の廃棄物との関係である。かつての帝国主義の植民地、社会主義国の収容所列島、スラム、多くの差別などなどが、そのしわよせの場だったのかもしれない。それでも足りなければ、戦争がかっこうの排泄場となる。マキャベリは「国家には時々排泄しなければならないものが溜まる」といった。しばしば国家は内部の葛藤や矛盾や対立の排泄のために戦争を行ってきた。

 これに対して平和維持の努力は何よりもまず、しなやかでゆらぎのある秩序を維持しつづける努力である。しかし、この“免震構造”の構築と維持のために刻々要する膨大なエネルギーは一般の目に映らない。平和が珠玉のごとくみえるのは戦時中および終戦後しばらくであり、平和が続くにつれて「すべて世はこともなし」「面白いことないなぁ」と当然視され「平和ボケ」と蔑視される。

 すなわち、平和が続くにつれて家庭も社会も世間も国家も、全体の様相は複雑化、不明瞭化し、見渡しが利かなくなる。平和の時代は戦争に比べて大事件に乏しい。人生に個人の生命を越えた(みせかけの)意義づけをせず、「生き甲斐」を与えない。これらが「退屈」感を生む。平和は「状態」であるから起承転結がないようにみえる。平和は、人に社会の中に埋没した平凡な一生を送らせる。人を引きつけるナラティヴ(物語)にならない。「戦記」は多いが「平和物語」はない。世界に稀な長期の平和である江戸時代250年に「崇高な犠牲的行為」の出番は乏しく、1702年に赤穂浪士の起こした事件が繰り返し語り継がれていった。後は佐倉宗五郎、八百屋お七か。現在でも小康状態の時は犯罪記事が一面を飾る。

 平和運動においても語り継がれる大部分は実は「戦争体験」である。これはネガとしての平和である。体験者を越えて語り継ぐことのできる戦争体験もあるが、語り継げないものもある。戦争体験は繰り返し語られるうちに陳腐化を避けようとして一方では「忠臣蔵」の美学に近づき、一方ではダンテの『神曲・地獄篇』の酸鼻に近づく。戦争を知らない人が耳を傾けるためには単純化と極端化と物語化は避けがたい。そして真剣な平和希求は、すでに西ドイツの若者の冷戦下のスローガンのように、消極的な“Ohne mich”(自分抜きでやってくれ)にとって変わってゆきがちである。「反戦」はただちに平和の構築にならない。

 さらに、平和においては、戦争とは逆に、多くの問題が棚卸され、あげつらわれる。戦争においては隠蔽されるか大目に見られる多くの不正が明るみに出る。実情に反して、社会の堕落は戦時ではなく平和時の方が意識される。社会の要求水準が高くなる。そこに人性としての疑いとやっかみが交じる。

 人間は現在の傾向がいつまでも続くような「外挿法思考」に慣れているので、未来は今より冴えないものにみえ、暗くさえ感じられ、社会全体が慢性の欲求不満状態に陥りやすい。社会の統一性は、平和な時代には見失われがちであり、空疎な言説のうちに消えがちである。経済循環の結果として、周期的に失業と不況とにおびえるようになる。被害感は強くなり、自分だけが疎外されているような感覚が生まれ、責任者を見つけようとする動きが煽られる。

 平和時の指導層は責任のみ重く、疎外され、戦時の隠れた不正に比べれば些細な非をあげつらわれる。指導者と民衆との同一視は普通行われず、指導者は嘲笑の的にされがちで、社会の集団的結合力が乏しくなる。指導者の平和維持の努力が評価されるのは半世紀から一世紀後である。すなわち、棺を覆うてなお定まらない。浅薄な眼には若者に限らず戦争はカッコよく平和はダサイと見えるようになる。

 時とともに若い時にも戦争の過酷さを経験していない人が指導層を占めるようになる。長期的には指導層の戦争への心理的抵抗が低下する。その彼らは戦争を発動する権限だけは手にしているが、戦争がどういうものか、そうして、どのようにして終結させるか、その得失は何であるかは考える能力も経験もなく、この欠落を自覚さえしなくなる。

 戦争に対する民衆の心理的バリヤーもまた低下する。国家社会の永続と安全に関係しない末梢的な摩擦に際しても容易に煽動されるようになる。たとえば国境線についての些細な対立がいかに重大な不正、侮辱、軽視とされ、「ばかにするな」「なめるな」の大合唱となってきたことか。歴史上その例に事欠かない。

 そしてある日、人は戦争に直面する。
 
 第一次大戦開始の際のドイツ宰相ベートマン=ホルヴェーグは前任者に「どうしてこういうことになったんだ」と問われて「それがわかったらねぇ」と嘆息したという。太平洋戦争の開戦直前、指導層は「ジリ貧よりドカ貧を選ぶ」といって、そのとおりになった。必要十分の根拠を以て開戦することは、1939年、ソ連に事実上の併合を迫られたフィンランドの他、なかなか思いつかない。

4.戦争準備と平和の準備

 戦争にはさまざまな長さの準備期間と始まり方と、同じくさまざまな長さの戦争の終わり方がある。一般に平和ははるかに準備しにくい。戦争中に民衆や兵士が平和を準備することは厳重に取り締まられ、事実上不可能である。戦争の終結とともにわれわれは平和の中に放り出される。戦後の現実はしばしば戦争よりも少なくとも暫くは過酷である。戦争指導者が構想する平和は通常、現実離れしている。彼らにも平和は突然来る。

 まだ戦争が始まっていないという意味での平和な時期の平和希求は、やれないわけではない。しかし、戦争反対の言論は、達成感に乏しく次第にアピール力を失いがちである。平和は維持であるから、唱え続けなければならない。すなわち持続的にエネルギーを注ぎ続けなければならない。しかも効果は目にみえないから、結果に勇気づけられることはめったになく、あっても弱い。したがって徒労感、敗北感が優位を占めてくる。そして、戦争の記憶が遠のくにつれて、「今はいちおう平和じゃないか」「戦争が起こりそうになったら反対するさ」という考えが多くの者に起こりがちとなる。

 しかし、これは力不足なのではない。平和を維持するとはそういうものなのである。その困難性は究極は負のエントロピーを注ぎ続けるところにある。実は平和は積極的に構築するものである。

 戦争が始まりそうになってからの反対で奏功した例はあっても少ない。1937年に始まる日中戦争直前には社会大衆党が躍進した。ダンスホールやキャバレーが開かれていた。人々はほぼ泰平の世を謳歌していたのである。天皇機関説は天皇の支持の下に二年前まで官僚公認の学説であった。たしかに昭和天皇とその親英米エスタブリッシュメントは孤立を深めつつあったが、満州や上海における軍の独断専行は、ある程度許容すれば止むであろうと楽観的に眺められていた。中国は軍閥が割拠し、いずれにせよ早晩列強の間で分割されてしまうのだという、少し古い認識がその背後にあった。しかし、いったん戦争が始まってしまうと、「前線の兵士の苦労を思え」という声の前に反対論は急速に圧伏された。ついで「戦死者」が持ち出される。「生存者罪悪感」への強烈な訴えである。平和への思考は平和への郷愁となり、個々の低い呟きでしかなくなる。
 
 この過程では「願望思考」と並んで「認知的不協和 congnitive dissonance」すなわち両立しがたい二つの認知の片一方を切り捨てる心理過程が大きく貢献しているにちがいない。特に戦争と平和の問題にはするどい不協和を起こす認知が多い。たとえば中国の覚醒はそこそこ認知されていたのだが、この認知は伝統的な中国観、中国人像と不協和であって、後者のほうが圧倒的な力を持ち、それと両立しない微かな徴候を読みとるものは少なかった。魯迅さえ「中国人は散らばった砂のようにまとまらない」と嘆いていたではないか――。たとえ正しく認知した者でも孤独の中で死を覚悟した発言を行って後世の評価を待つ者はきわめて少なく、それに耳を傾ける者の存在はほとんど期待できない。

 平和の論理がわかりにくいのは、平和の不名誉ではないが、時に政治的に利用されて内部で論争を生む。また平和運動の中には近親憎悪的な内部対立が起こる傾向がある。時とともに、平和を訴える者は同調者しか共鳴しないことばを語って足れりとするようになる。

 これに対して、戦争の準備に導く言葉は単純明快であり、簡単な論理構築で済む。人間の奥深いところ、いや人間以前の生命感覚にさえ訴える。誇りであり、万能感であり、覚悟である。これらは多くの者がふだん持ちたくて持てないものである。戦争に反対してこの高揚を損なう者への怒りが生まれ、被害感さえ生じる。仮想された敵に「あなどられている」「なめられている」「相手は増長しっ放しである」の合唱が起こり、反対者は臆病者、卑怯者呼ばわりされる。戦争に反対する者の動機が疑われ、疑われるだけならまだしも、何かの陰謀、他国の廻し者ではないかとの疑惑が人心に訴える力を持つようになる。

 さらに、「平和」さえ戦争準備に導く言論に取り込まれる。すなわち第一次大戦のスローガンは「戦争をなくするための戦争」であり、日中戦争では「東洋永遠の平和」であった。戦争の否定面は「選択的非注意」の対象となる。「見れども見えず」となるのである。

 平和の時には戦争に備え、戦争の際に平和を準備するべきだという見解はもっともであるが、戦争遂行中に指導層が平和を準備することは、短期で戦勝に終わる「クラウゼヴィッツ型戦争」の場合にしか起こらない。これは19世紀西欧における理想型で、たとえ準備してもめったに現実化しない。短期決戦による圧倒的戦勝を前提とする平和は現実には稀である。リデル=ハートが『戦略論』で「成功した戦争は数少ない」と述べているとおりである。妥協による講和が望みうる最良のものであるが、外征軍が敵国土に侵攻し、戦争目的が体制転覆さらには併合である場合の大多数では、侵攻された側の抵抗は当然強固かつ執拗となり、本来の目的が容易ならぬ障壁に遮られ、しばしば「戦争の堕落」とでもいうべき事態が起こる。

 実際、人間が端的に求めるものは「平和」よりも「安全保障感 security feeling」である。人間は老病死を恐れ、孤立を恐れ、治安を求め、社会保障を求め、社会の内外よりの干渉と攻撃とを恐れる。人間はしばしば脅威に過敏である。しかし、安全への脅威はその気になって捜せば必ず見つかる。完全なセキュリティというものはそもそも存在しないからである。

 「安全保障感」希求は平和維持の方を選ぶと思われるであろうか。そうとは限らない。まさに「安全の脅威」こそ戦争準備を強力に訴えるスローガンである。まことに「安全の脅威」ほど平和を掘り崩すキャンペーンに使われやすいものはない。自国が生存するための「生存圏」「生命線」を国境外に設定するのは帝国主義国の常套手段であった。明治中期の日本もすでにこれを設定していた。そして、この生命線なるものを脅かすものに対する非難、それに対抗する軍備の増強となる。1939年のポーランドがナチス・ドイツの脅威になっていたなど信じる者があるとも思えない。しかし、市民は「お前は単純だ」といわれて沈黙してしまう。ドイツの「権益」をおかそうとするポーランドの報復感情が強調される。

 しばしば「やられる前にやれ」という単純な論理が訴える力を持ち、先制攻撃を促す。虫刺されの箇所が大きく感じられて全身の注意を集めるように、局所的な不本意状態が国家のありうべからざる重大事態であるかのように思えてくる。指導層もジャーナリズムも、その感覚を煽る。

 日中戦争の遠因は、中国人の「日貨排斥運動」を条約違反として執拗に責めたことに始まる。当時の日本軍官民の態度は過剰反応としか言いようがない。実際、同時に英貨排斥運動も起こっているが、英国が穏やかにしているうちに、日本だけが標的になった。

 戦争への心理的準備は、国家が個人の生死を越えた存在であるという言説がどこからとなく生まれるあたりから始まる。そして戦争の不可避性と自国の被害者性を強調するところへと徐々に高まってゆく。実際は、後になってみれば不可避的どころか選択肢がいくつも見え、被害者性はせいぜいがお互い様なのである。しかし、そういう冷静な見方の多くは後知恵である。

 選択肢が他になく、一本道を不可避的に歩むしかないと信じるようになるのは民衆だけではない。指導者内部でも不可避論が主流を占めるようになってくる。一種の自家中毒、自己催眠である。1941年に開戦を聴いた識者のことばがいちように「きたるべきものがきた」であったことを思い出す。その遙か以前からすでに戦争の不可避性という宿命感覚は実に広く浸透していたのであった。極言すれば、一般に進むより引くほうが百倍も難しいという単純きわまることで開戦が決まるのかもしれない。日本は中国から撤兵を迫られて開戦に踏み切った。中国撤兵は現実には非常に困難であったろう。ゴルバチョフ・ソ連のアフガニスタン撤兵は改めて尊敬に値すると私は思う。

5.戦争開始と戦争の現実

 戦争の前には独特の重苦しい雰囲気がある。これを私は「(軍神)マルス感覚」と呼んだことがある。いっそ始まってほしいというほどの、目には見えないが今にもはちきれそうな緊張感がある。エランベルジェは日露戦争以後、ヨーロッパには次第に募る緊張感があって第一次大戦の開戦前には耐えがたい程になったという。

 そのせいか、戦争開始直後には反動的に躁的祝祭的雰囲気がわきあがる。太平洋戦争の開戦を聞いて「ついにやった!」「ざまあみろということであります」と有名人が叫んでいた。太平洋戦争初期の戦争歌謡は実に軽やかな戦慄であって無重力的ともいうべく、日中戦争時の重苦しくまさに「自虐的」な軍歌とは対照的であった。第一次大戦でも開戦直後には交戦国民のすべてが高揚し、リルケのような抒情詩人でさえ陶酔的な一時期があった。

 しかし、祝祭の持続時間は一ヶ月、せいぜい三ヶ月である。それが過ぎると戦争ははじめてその恐ろしい顔を現わしてくる。たいていの戦争はこの観点からすれば勝敗を論じる前にまず失敗である。おそらく、その前に戦争を終えるというのがクラウゼヴィッツの理想であったろう。

 しかし、もう遅い。平和は、なくなって初めてそのありがたみがわかる。短い祝祭期間が失望のうちに終わると、戦争は無際限に人命と労力と物資と財産を吸い込むブラックホールとなる。その持続時間と終結は次第に誰にもわからなくなり、ただ耐えて終わるのを待つのみになる。太平洋戦争の間ほど、平和な時代のささやかな幸せが語られたことはなかった。虎屋の羊羹が、家族の団欒が、通学路のタバコ店のメッチェン(少女)が、どれほど熱烈な話題となったことか。平和物語とは、実はこういうものである。過ぎ去って初めて珠玉のごときものとなるのは老いの繰り言と同じである。平和とは日常茶飯事が続くことである。

 戦争が始まるぎりぎりの直前まで、すべての人間は「戦争」の外にあり、外から戦争を眺めている。この時、戦争は人ごとであり、床屋政談の種である。開戦とともに戦争はすべての人の地平線を覆う。その向こうは全く見えない。そして、地平線の内側では安全の保障は原理的に撤去されている。あるものは「執行猶予」だけである。人々は、とにかく戦争が終わるまでこの猶予が続き、自分に近しい人の生命と生活が無事なままに終わってほしいと念じる。それが最終的に裏切られるのは、爆撃・砲撃を経験し、さらに地上での交戦を経験した時である。それが戦争のほんとうの顔であるが、究極の経験者は死者しかいない。

 米国の両次大戦激戦地における戦争神経症発症状態はカーディナーとスピーゲルの著作に克明に記述してあるが、同程度の激戦を経験して戦争神経症になった日本兵はほとんど帰還していないであろう。米軍のようには孤立した兵士を救出する努力をしないからである。第一次大戦初期の英軍も太平洋戦争後半の日本軍も。その真の戦争体験は永久に不明である。人類の共通体験に繰り込まれないということだ。

 1944年末、すでに米機の爆撃音は日本諸都市の日常の一部であったが、1945年3月、ドイツ諸都市で経験を積んだカーチス・ルメーの着任とともに、欧州並みの無差別都市爆撃が始まった。猶予期間は終わった。爆撃が重なるとともに次第に想像力が委縮し、麻痺し、爆撃によって炎上する都市を目撃してもそこに何が起こっているかを想像しなくなる。さらに無感動的になり、自他の生死にも鈍感になる。広島・長崎に対する「新型爆弾」攻撃を聞いても、艦載機の攻撃に備えた黒シャツを再び爆弾の「光線」を跳ね返す白シャツに替えるという些事のほうが大問題になってくる。震災の時の同心円的関心拡大とは逆の同心円的な関心縮小を私は体験した。いや、私は現実感を喪失し離人症的になっていたのであろう。この白々とした無意味性の中では低空を飛ぶ巨大なB29は銀色に輝いてただただ美しかった。敗戦の知らせを何の感動もなく聴いた。その後、数カ月間の記憶は断片的であって、明らかに解離がある。同級生の語る「教科書への墨塗り」の記憶はどうしても出てこない。

※この後、6章~12章まで続きます。何度でも読みたくなるような文章なので気になったら手に取ってみてください。



by chi-midoro | 2017-07-05 03:25 | 脱力
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