ブラックニッカ日々 2018-12-27

12時頃家を出て梅田へ。
メテオさんやハヤトさんから何度も「ヤバい!見た方がいい」と教えてもらっている「ボヘミアンラプソディ」をついに見ようと思って、みゆきさんと待ち合わせ。
金券ショップで以前に買ってあった割引券を劇場に持って行って席を予約し、上映まで2時間ぐらいまだあるので、まず、イーレの地下の「篝」っていう、鶏白湯ラーメンの店でいつも並んでるところをのぞいてみたらそんなに並んでない。並び始めて手渡されたメニュー表を見たら、看板メニューらしき「鶏白湯そば」が980円で、一瞬列を離脱しようかと思ったが、年末だしとりあえず財布にそれを払う金があるので、そのまま並ぶことに。

で、食べたら美味しかった。
旨みがちょっと濃すぎるぐらいの、音圧上げすぎ!みたいな感じがあったが、
800円で、記憶に残らないラーメンを食べるよりは、「いやーあれはすごい」と後まで覚えていそうだ。
イーレの蔦屋書店で立ち読みして時間を潰し、いよいよ「ボヘミアンラプソディ」をみる。

ものすごい泣くんじゃないかと思って身構えて見ていたからか、最後の方でフレディが一度ソロに専念したくなってメンバーとの間に溝ができた後、詫びを入れてやっぱり一緒にやりたいって話しに行く時にメンバーが提示した条件が「誰が作った曲でもクレジットを『クイーン』に統一すること」っていうもので、そこで思わず涙腺が緩んだ以外は結構冷静にみた。

クイーンの音楽、家にベスト盤があるぐらいだけどそれでもよくクスモと聴いて、マネしながら歌って、特にボヘミアンラプソディの変な展開みたいなのが面白く、「チミドロでこういうのやってみたい」と語り合ったりしていた。ただ、クイーンを聴くといつも「なんて思っていいかわからない」みたいになって、最後はいつも気づいたらCDが終わってる。自分にとって「これはこういう時に聴く音楽」みたいにストンとしまう場所がなくて、なんなんだと思ってまたしばらく聴かない。そういう調子。

映画は演出が結構派手で、イッチーが「クイーンをかっこよく見せる映画だ」みたいに言っていたように、少年ジャンプのマンガのような、クイーン伝説!っていう感じだから、これを鵜呑みにしたらまた違うのかもしれないけど、とにかく、フレディの中に男性的なものへと女性的なものへ憧れがどっち側にも強烈に存在したっぽいように、マッチョさとたおやかさみたいなものが同時に自分の中にあり、その複雑さをそのまま曲に込めるので、しまう棚の無い複雑な印象になるのかもしれないことがわかった(っていう時、自分はボヘミアンラプソディを想像してるから、そりゃそうなだけで、他にもっとシンプルな曲もあるだろうけども)。フレディの中にそんな複雑さがあったとすれば、もちろん長年連れ添ったメンバーにもその複雑さは共有され、バンド全体が複雑な内面を持っていただろう。

このわかりにくさゆえにずっとクイーンの印象がぼんやりしてたけど、このわかりやすさが面白かったんだな。映画の中のフレディが人間として愛らし過ぎて映画を見た後もずっと脳裏にあの顔が浮かんだ。帰って調べたけど、フレディが自分がHIVに感染していたことを知るのはライブエイドの後だったそうで、この映画の色々な操作の中でそこが最も賛否両論の争点になっているらしい。

自分はそんなかっこよくしなくたって、あのライブエイドのライブのすごさは伝わったと思うし、なんなら、フレディがその後、HIVと戦い、弱っていく自分を受け入れていくところだって見たかった気がする。それを見せるとあのかっこよさがますます強くなるような気がするけど、まあそこは難しいか。とにかく、あの演出だと、メンバーはフレディが遠くない未来に死ぬかもと思って演奏していたことになるけど、本当はそうじゃなかったのか。それともなんとなくそんな気配はあったのか。事実と映画を完璧に照らし合わせても仕方ないけど、その点が気になり、でもだんだんと「まあ、それはそうと見てよかった映画だったな」と思い直していった。

# by chi-midoro | 2019-01-01 22:54 | 脱力

ブラックニッカ日々 2018-12-26

昼はカップ麺。
仕事したり掃除したり。
夜は一人湯豆腐。

図書館で借りていた内山節「時間についての十二章」という本を読み終える。
いつなんのきっかけでだったか思い出せないが、アマゾンの欲しいものリストにずっと入っていて、それをようやく読んだ。
するとこれがすごく面白かった。

著者の内山節は哲学者で、群馬県の山奥に畑を持っていて、いつもそこで暮らすわけではないが、年の半分ぐらいを過ごしているようだ。それで、村の人と交流したりできる限りの農作業をしたりしながら色々考えている。
農村の人々は、季節のめぐりに応じて農作業したり、祭りの準備をしたり、そういう、円環のようにめぐる時間を過ごしている。家の山にでかい木があって、例えばそれは自分の祖父が植えたもので、何十年かけて大きくなった木を、息子の入学資金を工面するために切って売る、みたいな長いスパンの時間もある。それに対して、自分の人生が80年だとしたら、この年までにはいくら稼いでおかないと、みたいな直線的な時間がある。会社勤めしていると、目標を立たせられて、去年よりももっと良くなっていかなきゃいけなかった(実際は無理だとしても)。まさにそれは直線的な時間の捉え方だ。著者はその直線的な時間が人間を窮屈にしていると考えている。

付せんを挟んだ箇所が多すぎて書き写すのが難しいから、気になったところをざっくり要約する。
・農民の一年は同じ速さで進む時間によって構成されておらず、忙しく作業する時とのんびりしている時があり、時間の速度はゆらいでいる。一日の中でも同じで、畑仕事をしている時に、ふとぼーっとした一瞬がおとずれたりする。
・そんな農村も、出稼ぎに出る人が増えたり、都市と同じような雇用労働者となって直線的な時間を生きなきゃいけなくなった。で、その時間の中に身を置いてみると、農村の時間は憂鬱で停滞を感じさせる。
・農村の人々は、直線的な時間を上手に渡り歩いている同世代の人々に気おくれを感じることが多いが、定年を迎えると、コロッと状況が変わり、農村に流れる永遠的な時間が羨望の眼差しで見られるようになる。
・著者のいる村のおばあさんが「この村は日本で一番よいところだ」と言う。「私は村から一度も出たことがないから、それは間違いのないことだと思うよ」と言う。そこから出たことがないことが一番いい場所である証拠なのだ。
・著者のいる村の人々は田畑で色々なものを作ったり、山菜を採ったりするけど、それを出荷することはしない。それはそもそも収穫量が大量じゃないこともあるけど、それに加えて、出荷したところで大した金額にならないからである。で、出荷しようと考えた瞬間に、これまでただ、自分で食べたり近所の人にあげるために作っていた豊かな田畑が、「これだけの作業量に対してこれだけの収入しか生まない貧しい土地」に変わってしまうことを村人は経験から知っている。そうなったらバカらしくてやってられないのである。
・村人たちは、このままの勢いで人が都会に出ていったら数十年と経たないうちにこの村が廃村になることを頭では理解しているが、目の前の、四季がめぐり続ける時間の永遠性の中ではそれを忘れてしまう。というか、それが永遠にめぐることを当然のように感じている。
・著者のいる村は地形が険しく、大規模な農作業に不向きだ。しかし、耕地が狭くて農業が近代化しようにもできなかったことがかえってこの村ならではの労働と暮らしのあり方を維持した。
・釣りをしていると、川の流れが複雑な場所に魚は暮らすことがわかる。ゆらぎ続ける流れに魚が住む。コンクリートを打たれて川が等速で流れるようになると魚が姿を消す。
・今の経済は個人の一生の中の例えば10代から60代か、今ならもっとかもしれないが、とにかく、個人が元気に働いていられる長さを計算することに最適化されていて、木の成長するまでの100年みたいな時間を相手にすることができない。

と、抜き出していくとかなりネイチャー賛美みたいな風に見えるけど、そんな感じじゃなく、著者は、私たちが当たり前に人生設計したりする際の勘定の基礎にしている時間とは別の時間があるんじゃないかと考えていて、直線的な時間は、たくさんある時間の在り方の中の一つなのに、いつしかそれが他の時間を駆逐した。もっと自由に生きられる時間があるんじゃないかと思っている。

本当に自分もそう思う。

自分の年表みたいなのをもし今作ったら、自分は全然「かくあるべき年齢にそうなってない」みたいなことしかないだろうけど、それを圧に感じなくたっていいんじゃないだろうか。それが楽しい人はそれでいいけど、そうなじゃなくたっていいんじゃないか。

山形のいとこたちをいつもずっと自分の時間とは違う魅力的な時間の中で生きている人に感じてきた自分は、すごく思うことの多い本だった。

あと、今やネットで僻地だって瞬時にアマゾンで買い物できたり、外の世界の様子をのリアルタイムに知ることができるけど、そうなると、上に抜き出したように途端に自分の居場所が遅く、まどろっこしく感じるようになりそうな気がする。ネットでつながることが、自分たちの場所をダサく感じさせてしまうようなことがある気がした。

# by chi-midoro | 2019-01-01 18:04 | 脱力

ブラックニッカ日々 2018-12-25

親戚たちに誘われ、15時30分から帝国ホテルのバイキングへ。
ただのスープかと思ってとったスープからしてめちゃくちゃうまい。
ちょっとしたサラダみたいなのもやけにうまい。
梅田のオリンピアのバイキングも楽しいけど、うまい度がかなり違った。
スープ8杯は飲んだ。

そして水上バスに乗って大阪城公園まで行き、
ライトアップイベントみたいなのにみんなで行く。
大阪城がネオンで作ってあったり、「やっぱ好きやねん」という文字がネオンになっていたりコテコテ。
テーマが「幕末」らしく、横に長いオーロラビジョンに「井伊直弼、暗殺!」「明治維新、為る!」とかデカい文字が出て来たりして、
せっかくでかいスペースなのになんでまたこれなのかわからない。
維新の会の策略とかだったら嫌だな…。
猿回しをやっていて、それを見る。

中之島あたりまでまた水上バスに乗って、
その船の中ではまだ18歳だという若手俳優がカラオケで山下達郎の「クリスマス・イブ」を歌う。
寒空の下の猿回しといい、このカラオケといい、なんか武田百合子がエッセイに書きそうな、
なんとまあ世俗、っていう感じがした。

それをそれなりに楽しみ、天満橋まで歩いて地下鉄乗って帰る。
小腹がすいたとボーイズがいい、コンビニでカップヌードルをみんなの分買って食べた。

# by chi-midoro | 2019-01-01 03:00 | 脱力

ブラックニッカ日々 2018-12-24

昼近く起床。
適当スパゲティ。

ボーイズと梅田に出て駅前ビルの金券ショップをのぞく。
兵庫県立美術館でやっているサヴィニャック展が今日までで、行ってみるかと思って券買う。
阪神電車で岩屋駅まで行き、美術館へ歩いていく。
美術館前の看板のところで写真を撮ると、それで結構気が済む。
サヴィニャックはフランス生まれで、なんか自分がフランスらしいデザインっていうとイメージする象徴的なものに近いような、洒脱そのものの広告イラストをたくさん描いている。
牛の乳がそのまま石けんになってるようなポスターのラフだけどこれ以上も以下もないような線、小首をかしげたような牛のなんか可愛く憎たらしい感じ、シンプルな色使い、フランスって気がする。
この牛の石けん広告も、毛糸の広告で自分が毛糸で自分自身を編んでいる、みたいなポスターも、他のいくつかにも共通して、主人公である人や動物が商品自体になっているっていうモチーフが多くて、ゆるキャラとかもそうかもしれないけど、それがどんな絵であれ、そこに描かれてる人物なり動物なりが一旦絵の中に存在してしまうと、なんだかもう憎めないっていう機能が人間にはあって、そういう感覚がサヴィニャックは天才的で、このポスターを嫌悪する人ってほとんどいないんじゃないかと思う。
誰がどう見てもなんか可愛いと思うようなさじ加減なのか、なんなのか、そういう風なものを作れる運動神経があるような。
ボーイズも「おもしろい」「変や」とかいいながら楽しんでいたようだ。
子どもと一緒に展示をみると、みんな集中力が全然続かないので、小走りで会場を過ぎ去るように見て行くことに大抵なるのだが、それはそれで面白いと思う。一通り目に入れて完了!みたいな。

ポストカード買って、顔ハメパネルで写真を撮って美術館を出る。
そして来た道を戻り駅を通り過ぎてそのまま真っ直ぐ歩き、横尾忠則美術館へ。
兵庫県立美術館の半券を持っていると安く入れるという。
ずっと行きたいと思っていつつ行けてなかった横尾忠則美術館。
今やっているのは「在庫一掃大放出展」っていうので、これまでこの美術館で展示されてこなかった作品をテーマ関係なく一気に見せるっていうものらしかった。
宗教画っぽい絵の上に「SALE」「SALE」っていっぱい文字が描かれているメインビジュアルが面白い。
美術館に入ると、さっきのサヴィニャック展とは対照的な、絵の一部が鏡になった作品や、絵からマネキンの手が飛び出している作品があったり、女の人が上着をまくり上げるとハエがびっしりいる、みたいな絵もあったりで、ボーイズは「こわ!」と驚いており、さっきのもこういうのもどっちでも別にいいのだ、ノールールである、と伝える。
めちゃくちゃな絵ばっかりで「横尾忠則ってほんと」みたいな気持ちにばかりなったが、いくつか展示されていたY字路シリーズや、故郷の村の川の風景を描いたという暗い絵がやっぱり好きだった。あと、横尾さんが宝塚を見に行って感激してその日にブロマイドを1000枚買って帰り、それを全部並べて、ブロマイドとブロマイドが隣り合う隅のところに、どこかから持って来た古い卒業アルバムの生徒たちの顔写真を配置したでかい作品が展示されていてそれが笑えた。
見たその日に1000枚買って帰るっていう勢い!いい。

ミュージアムショップのポストカードの種類がめちゃくちゃたくさんあって金が足りない。Y字路の絵ばかり5枚買う。

外に出ると夕暮れで風が冷たい。駅へ行く途中の公園で、飛行機雲が燃えるような色になっているのを見た。
梅田で夕飯の食材を少し買い、家に帰ってずっと冷蔵庫に入れてあったシャンメリーをあけて乾杯する。
チキンナゲットを食べてケーキを食べてゲームして寝る。

# by chi-midoro | 2018-12-31 12:23 | 脱力

ブラックニッカ日々 2018-12-23

昼頃起きる。
仕事する。

夕方、梅田に買い物に。
ついでにルクアの地下でご飯。
ハンバーグ弁当みたいなの食べる。
一瞬でお腹いっぱいになる。
GAPに寄ってみたら色々半額セールしててなんか無理矢理買いたくなる。
しかし買わない。

家に戻り、風呂入って寝て起きて仕事再開。
ようやく一つ書き終わる。
今年中にあと2個書いてすっきりしたい。

河合隼雄「明恵 夢を生きる」を図書館で借りてたのを読み終える。
鎌倉時代の僧、明恵は長年にわたって夢を記録していて、その記録を河合隼雄が読み解きつつ明恵という人物に迫る、みたいな本。
新鮮だったのが、夢に対してめちゃくちゃ真剣で、「夢を真に受ける」という感じ。
それがいつからのことなのか分からないが、今、夢は取るに足らないものと思われている気がする。
「他人の夢の話は退屈で聞いてられない」みたいなことは当たり前のようになっているし、
多分どこかの時代からそうなったんじゃないかと思う。
自分も、色んな変な夢を見ても、それが自分の人生の行く末を示唆してる、とかあまり思わないでいたが、
この本の中では、というか明恵にとっては、夢はお告げだし、例えば夢の中で仏教の高みに到達したとしたら、
それは現世で修業してそこにたどり着くのと同じぐらい重要な意味として捉えられる。
まさに本のタイトル通り、夢の中でも現実と同じように生きているのだ。
だから真剣にやらなきゃいけない。
例えば、夢の中で怖いことが起きそうな気がしたとする。このドアを開けたら戻れない世界に行ってしまうような、そういう恐怖を感じたとして、そこでドアを開けるのをためらわずに夢の果てまでちゃんと行って、そこに何があるかを見ろ、みたいなことが書いてあった。
夢は自分に何かを教えてくれるものなのだから、「怖いからドアを開けない」っていうのはもったいないことなのだ。

今まで自分はそんな風に真っ正面から夢に向かい合ってこなかった。
よく考えたら、あんなわけわかんないものをバカにしてかかるなんてどうかしていた。
自分が見た夢のことはできるだけ記録して、それがどういう意味を持っているのか考えた方がいいし、他人の夢の話もどんどん聞きたいと今は思う。

# by chi-midoro | 2018-12-25 11:09 | 脱力